合唱初心者のための「五つの童画」~解説その4~

好調に更新を続けている合唱初心者のためのシリーズ、
第4弾です!

前回までで、重要ポイント3つをご紹介し終わりましたので、
第4回目の今回、簡単な曲の内容の解説に入っていきたいと思います。

通常、曲の内容説明は、一番最初に行うのかもしれませんが、
これを後回しにした理由は、、、そう、もうお分かりですね?
前回書きました通り、この「五つの童画」の詩の解釈を単独でやることは
あまりお勧めしないからです。
曲の中で味わってなんぼ、できれば楽譜を見ながら、というのがお勧めの方法で
それと並行して、詩のみを味わうのがいいのではないかと思います。

しかし、初心者のための、と書いておきながら、内容解説を飛ばすわけにはいきません。
一番いいのは、詩をまずは載せて、読んでいただいてから、という方法がいいのですが、
著作権の関係もあって、それはできません。

あくまでも、ざっとどんな内容かをわかっていただき、興味を持っていただける程度に、内容をご紹介したいと思います。


・1曲目「風見鳥」
あっちだよ、こっちだよ、と、風の言うままになんでも見てしまった風見鳥は死んでしまいます。
なんでも知っていて、なんでも見ていたはずの風見鳥は、あらしに負けて落っこちますが、風見鳥には目も口もなかった。そんな悲喜劇が描かれています。

風見鳥がみていた風景の描写部分
「裏山の猪が子を産んだ 十二匹 畠の子いもが盗まれた 十一個 十二匹目のうりっ子が ころんでけがして死んだ」

こういった描写にも残酷さが複線的に仕組まれています。

・2曲目「ほら貝の笛」
人や海にその声をとどろかせていたほら貝も、今は忘れられ、海にも帰れず、そして、ただ、コオロギがその中で泣いているだけという無情をうたっています。

ほら貝とは、果たして何?そして誰?もしかしてあなた?それは私?

・3曲目「やじろべえ」
やじろべえはやじろべえ、いつまでたってもやじろべえはやじろべえ。でも、よく見てみると、そこにいたはずのやじろべえは、影になって、そしていなくなっています。

どんなに願っても変わることができない、そして、よく見れば、実体すらない影で、そして、消えていくのが私たち人間ではないか、と考えさせられる詩です。

・4曲目「砂時計」
私たちの記憶の断片、砂時計の落ちる砂のように、悲しい「時」も、楽しい「時」も、すべてばらばらとなって、見えなくなり、手の届かないどこかで銀色の魚となって泳ぎまわる。しかし、その魚はだれも釣れないのだと語ります。

三善先生は著書の中でも、高田敏子さんは、銀色の魚は誰も釣れないと書いてくださった・・・と、触れていらっしゃいますので、内容について、とてもひかれるもののあった作品なのかもしれません。(←あくまで推測ですが。)

記憶、時間、といったものと銀色の魚のイメージの表現は、高田敏子さんでなければできない、とても印象的なものだと思います。

・5曲目「どんぐりのコマ」
詩だけを読めば、少しのアイロニーがあります。たくさんの樫の実達。大きな樫の実も小さな樫の実も、みんな樫の木になりたいと言って飛びおりていきます。でも、樫の実の頭は、神様がちょっとつまんでとがらせた。だから子供たちはコマにして遊びます。運命を知らない樫の実達、それでも、力いっぱい「樫の木になりたい」といって、飛びおりていくのです。

曲については、前回、書いたとおり、ちょっとした言葉の使い方と曲の作り方で、大きく意味を変えて取ることができます。

胸に希望を持って「みんな」で飛びおりていくどんぐりたち。大きいものも小さいものも、落ち葉や、雲と風、子供たちと一緒に「みんな」でまわるという最後のシーンには、希望と救いが描かれています。

何度も言いますが、実際の詩を読み、曲を聴き、その中で個々人が感じるのが一番ですし、
解釈に正しい答えはありませんので、ふーん、と読み捨てていただいてかまいません。
そのあたり、ご理解いただければ幸いです!
(答えは、みなさんお一人おひとりが胸に感じればいいものだと思います。。。)

さああ、ますます、CAの演奏会に行って聞きたくなったところで、次回につづく、です。

(文責)芳賀