2014年を振り返る: 2014年コンクール全国大会@高松

振り返るシリーズ、Part4となります。
2014年の全日本合唱コンクール全国大会についてテノールのおっちいさんに振り返っていただきました。
読み応えのある文章になっていますが、是非お読み下さい!!

イレギュラリティーの深淵
~2014年コンクール全国大会@高松を顧みて byおっちい~

僕らの高松への旅は、イレギュラリティーへの旅だった。自由曲、八村義夫氏(以下、八村と敬称略)の愛の園・アウトサイダーⅠによって、僕の合唱の世界観(というほどの偉そうなものなど持ち合わせていないが、何かそのような大切なもの)が根底から大きく変わったといっても過言ではないと思う。
初めてその楽譜を見た瞬間、途方に暮れるしかなかった。過去の演奏録音を聴いた時は、ただただ凄い曲だと思った。音はもちろん、言葉もとても不自然なように聞こえた。最初のうちは何度練習してもこの曲がまともに歌えるようになる気がしなかった。これから自分たちはどこに向かっていくのか、どこにたどり着くのか見当もつかなかった。

この曲を理解する大きな鍵の一つは、イレギュラリティーという概念にあった。イレギュラリティーの本質を正確に示すには、私の才能は余りに小さく平凡すぎる。もし私なりの言葉で試みることが許されるなら、それは、人間の経験が積み重ねられ知恵が蓄積する過程において形成された、大勢の常識や期待から生まれる集団的な規則性、予想可能性からの脱却とでも言えるかも知れない。しかも厄介なことに、そしてとても楽しいことに、この不規則性あるいは予測不可能性は、決してAt randomなものや偶然でなく、明確なビジョンを持った精神的バックボーンから「企てられて」発出されなければならなかった。
予定調和の中から意図的にはみ出て人を驚かせることは、アドリブ満載のジャズのセッションや、大観衆をあっと言わせる弾道でゴールを決めるストライカーを思い描かせた。そこには、ただ人を驚かせるだけではない、人の心を揺さぶる何かがある。そう考えると、作曲者が企図した不規則性、予想不可能性を音として正確に再現することは困難を極めても、それらがもたらす効果の意味を理解しようと試みることで、遥か空の彼方に聳え立っていた高峰が、渾身の力でしがみつけば登れそうな岩山に見えてきた。イレギュラリティーの概念が、私にもこの曲を歌えるようになるのではないかと思わせてくれたのだ。

もう一つ、この曲を理解する鍵はWilliam Blakeにあった。 William Blakeの詩と八村義夫の音楽(明確な音程を特定されない音も含めて)が、どういう必然性をもって組み合わされているのかを考えて、何度も詩を読んだ。そうした中で、この曲にもっと魂を吹き込むことができればと願い、自分の耳が覚えている英国英語のイントネーションや発音を団員の皆さんにアドバイスすることも買って出た。入団してまだ二年余りの新米で決して専門家でもない私の言葉に耳を傾けてもらえたのは、雨森先生とCAの懐の深さの現れである。我々は、英国詩人のBlakeになりきれるように、彼の詩を読んだ。
 Blakeが信奉していた本能的で自然に湧き上がる営みを尊重する信仰と、その当時における大きな異端性を知るにつれて、八村がアウトサイダーと称して目指そうとした音楽の精神的な土台に思いを馳せた。マクロ的様式に囚われず、全てがミクロからスタートする意味について考えた。そうして何度も読み、歌い、そして、気がついたことがあった。
自分がやるべきことは、八村が楽譜で書いたイレギュラリティーを正確に再現することだけにあるのではない。Blakeの言葉をBlakeの心からだけではではなく自分の心からも発した言葉のうねりとして読み、Blakeにとってではなく自分自身にとっての「愛の園」についても考え、八村の曲を自分の魂から発した音の叫びとして歌いたい、そうすることが自分として自然に必要なことと思えるようになっていった。この曲を練習することが純粋に楽しくなった。

本番を歌い終えて、私の心に残ったのは大きな充実感だったが、達成感ではなかった。岩山を登ってきて頂に上りきったという感慨はなかった。イレギュラリティーという山を信じて登ってきて、登り切った山は確かに想像以上に素晴らしい山だった。けれど、達した頂の向こう側にイレギュラリティーのとてつもなく深い湖があった。その深淵に首を垂れて覗き見て思った。この曲を歌った本当の意味が問われるのは、歌い終わった今ではなく、これからなのではないか、と。
前にイレギュラリティーの定義を私なりの言葉で記したが、実は、この歌を歌い進むにつれて、現象として現れる無法則性や予測不可能性も重要ながら、むしろその背後あるいは源にあるものこそがイレギュラリティーの本質に近いのではないか、そういう気がしていた。でも、それが一体何なのか、終わった後も、私にはわからなかった。そこへ向かわせる本能的なもの、突き動かすある種の(音楽に対する)リビドー的なるもののような気もするし、天性的な感性がもたらす心の動きなのかもしれない。それとも、実はあらゆる経験の積み重ねから紡ぎだされる糸のようなものなのか、そして、それが、なぜ人の共感を呼び起こすのか。
 イレギュラリティーの山から下界に戻った時、私達はどのように音楽に向かえばいいのだろう。あの山は非日常だからといって忘れ去る、そんなことはもはや到底できない。でも、イレギュラリティーの発揮が明示的には要求されているようには見えない作品に対して、自分はこの山から得たものをどう体現すればいいのだろうか。この曲から学んだ自分が歌う理由は、これから歌う理由にどう繋げていくのか。そう考えると、このイレギュラリティーの深淵は途方もなく深かった。

イレギュラリティーへの旅は続く。霧の深い山道の中を進んでいる。どこへ行くのか、その答は、一人一人が出していくこと、だ。この曲の終わりは、突然ターミネートされたような終焉とも、無重力的な空間の中へ放り出されたような瞬間とも、様々なイメージのとらえ方がされたが、私には、未来に向けた自己解決への祈りが暗示されているように、終わった後、そう思った。この曲を歌い継ぐことの本当の意味は、この深き淵に潜む意味を考える旅に出ること、その旅のたどり着く先に思いを馳せること、そしてその自らの旅を遂げられる可能性に出会うことにあるのではないか、と。

今はただ、この曲との出会いに導いて頂いた雨森先生とCAスタッフの方々に深い感謝の念に絶えない。